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当館概要


細川家と永青文庫


永青文庫は、今は遠き武蔵野の面影を止める目白台の一画に、江戸時代から戦後にかけて所在した広大な細川家の屋敷跡の一隅にあります。

細川家は室町幕府三管領の一つとして武門の誉れ高い家柄で、現在の細川家は藤孝(幽斎)を初代として戦国時代に始まります。代々文武両道にすぐれた細川家は、多くの戦功を挙げて、3代忠利のとき肥後熊本54万石を与えられ、強力な外様大名として幕末に至りました。








この家に伝来する歴史資料や美術品等の文化財を管理保存・研究し、一般に公開しているのが永青文庫です。昭和25年(1950)、16代護立によって設立されました。その名称は始祖細川頼有以後8代の菩提寺である京都建仁寺塔頭永源庵の「永」と、初代藤孝の居城青龍寺城の「青」の二字をとって護立が名付けたものです。

昭和47年(1972)から一般公開を始め、翌48年(1973)に博物館法による登録博物館となり現在に至っています。因みに現在の建物は旧細川侯爵家の家政所(事務所)として昭和5年(1930)に建設されたものです。所蔵品は護立と17代護貞から寄付を受けたものであり、テーマごとに展覧会を開催しています。











■ 公益財団法人永青文庫について




大名細川家のコレクション


永青文庫のコレクションは、江戸時代以前から大名細川家のコレクションとして伝わったものと、近代になって細川家16代の護立を中心に収集されたものに大別できます。

初代細川藤孝(幽斎)は、武勇に優れたのと同時に幅広い教養を持ち、とくに和歌については、『古今和歌集』の秘伝の解釈である「古今伝授」の唯一の継承者となるほどの人物でした。藤孝の長男で、ガラシャを妻とした忠興(三斎)も数々の武功を挙げ、織田信長から自筆の感状@を受けています。同時に、忠興は千利休の高弟として茶道に優れ、「唐物尻膨茶入 利休尻ふくら」Aなど利休ゆかりの貴重な茶道具が残っています。3代目当主で熊本藩の初代藩主となった忠利は、晩年の宮本武蔵を熊本に招いたことから、武蔵に関連する史料が伝来しています。「宝暦の改革」で有名な8代目の重賢は、学問好きの殿様としても知られ、当時流行した博物学を趣味とし、様々な生物を写生した図譜Bを数多く作らせました。10代目の斉茲は、絵画好きの殿様として知られ、中国絵画や古絵巻を収集し、自らも専門絵師顔負けの作品を描きました。その他の歴代当主も文化に造詣が深く、豊富な大名調度類が伝わっています。



 


@ 重要文化財 「織田信長自筆感状(細川忠興宛)」
(天正5年〈1577〉)10月2日

 


A 重要美術品 「唐物尻膨茶入 利休尻ふくら」
中国・南宋〜元時代(13〜14世紀)





B 「毛介綺煥」(部分)
江戸時代(18世紀)







細川護立のコレクション


細川家16代護立は、近代日本有数の美術品コレクターとして知られています。中学生時代に病床に伏していたとき、白隠の書画や刀剣に興味を持ったのが美術品収集のきっかけとなりました。現在永青文庫に伝わる刀剣のほとんどは護立が購入したものであり、白隠Cや白隠をきっかけに出会った仙高フ作品は400点以上にものぼります。

護立コレクションで最も有名なものは近代日本画でしょう。護立の集めた近代日本画は、画家やコレクターたちとの関わりから作品を入手したことに特徴があります。護立は、横山大観や菱田春草がまだ無名であった頃からその作品に強く魅かれ、大観の「山路」や、春草の「黒き猫」D、「落葉」Eなどを収集しました。とくに大観とは亡くなるまで深い親交を続けました。また、少年期より漢籍に親しみ、中国文化に強い憧れを抱いていた護立は、中国の古美術の収集も盛んに行いました。現在は国宝に指定され、「細川ミラー」とも称される「金銀錯狩猟文鏡」Fは、全く類例が知られていませんでしたが、護立は見た途端に気に入って即購入を決めたといいます。さらに、唐三彩や石仏など数多くの優品を収集しました。



 


C 白隠慧鶴「横向き半身達磨図」
江戸時代(18世紀)

 


D 菱田春草「黒き猫」
明治43年(1910)
熊本県立美術館寄託




 
 


E 重要文化財 菱田春草「落葉」
明治42年(1909)
熊本県立美術館寄託





F 国宝 「金銀錯狩猟文鏡」
中国・戦国時代(前4〜前3世紀)




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